鈴木久雄さんインタビュー
スペイン、バルセロナを拠点に、世界的な建築写真家として活躍する鈴木久雄さん。野球少年から写真学校へ、その後入った料理写真の世界を飛び出して、ロシアからスペインへと渡り、そこでガウディの教会と出会ったのが建築写真家としての原点と言います。現在では、磯崎新氏をはじめとする、世界的に有名な建築家達の作品を撮り続けています。12月にお仕事で来日した際、多忙なスケジュールを縫って本学にお越しいただきお話を伺いました。
野球部から写真部そして写真学校へ
-いつ頃から写真を?
中学生の頃から野球部で、高校でも野球部に入ったのですが、とても弱いチームだったのでつまらなくなって野球部を辞めてしまいした。その頃、たまたま父が買ったペンタックスのカメラが家にあって、それを触っているうちに写真を撮って見たくなり、写真部へ入部しました。そこで、後に写真学校へ一緒に入学することになる水戸君と出会いました。写真部に入って写真を撮り始めてからは、その面白さにどんどん引き込まれていきました。
– 本校に進学しようと思った理由は何ですか?
写真に本格的に興味をもち始めた高校3年生の夏休み前に、写真部に写真学校から夏期講座の案内が届きました。それを見て水戸君と二人で参加してみようということになったのです。3日間で、モノクロのフイルムを使って撮影から現像、プリントまでを習うという講座でした。その夏期講座には全国から30人くらいの学生たちが集まって来ていましたが、その後その中から10人くらいが本学に入学したと思います。後にお世話になる、大西みつぐ先生(第15期生 本校講師)との出会いもこの時でした。
写真部でやっていたのとは比べ物にならない程の技術と暗室・スタジオの設備に驚きましたね。その頃には、もう将来は写真を職業にしようと思っていたので、専門学校について調べていました。色々な学校から要覧を取り寄せたり、公開講座に出たりしましたね。そんななかで東京綜合写真専門学校に決めた理由は、その夏期講座での経験もそうですが、充実したカリキュラム、活躍している卒業生の多さ、講師陣の多彩さなど、綜合写専のもつまさに綜合的な魅力に引かれたからです。
「母親のヌード」に悪戦苦闘
-入学後はどうでしたか?
1年生は100人くらいいたと思います。土田ヒロミ先生(第8期生 本校元校長)が僕のクラスの担任でした。その年の一番の思い出は夏休みに「母親のヌード」という課題が出たこと。夏休みに実家に帰ったものの母親にその課題のことをなかなか言い出せなくて、撮影できないまま日が過ぎて行きました。そして横浜へ帰る前日に思い切って母に打ち明け、やっと撮影したのです。仕事の現場では撮影の為に様々な人と交渉する必要があるのですが、今思うと、私にとっては、母親が初めての手強い交渉相手だったと思っています。その後、その時に撮った写真を使って、「母からの手紙」というタイトルでクラス展を開催したのですが、そこになんと荒木経惟さんが見に来て下さって、私の写真の前で自分と一緒に写真を撮ってもらったことを鮮明に覚えています。嬉しかったですね。あと1年生の授業で印象深いのは、4x5カメラの実習です。4x5カメラは一枚一枚カットホルダーにフイルムを詰めて撮影する、とても不自由なカメラですが、その扱いや描写力に非常に興味をもちました。
2年生になって自分の撮りたい写真によってクラスを選択する時には、大型カメラで1年間授業をするクラスがあったので、迷わずそこを選択しました。世界の音楽家の写真を撮られている木之下晃先生が担当する、1年間ズーッと積み木の撮影というユニークな授業だったのですが、私にとっては最高の授業の一つで、一年間非常に集中して取り組むことができました。撮影はすべてモノクロフィルム、家に帰るとフイルム現像と密着焼きの毎日です。その作業に必要なフイルム代、薬品代を捻出するためにプロラボ(プロフォトグラファー向けの現像所)でアルバイトを始めることにしました。現像が上がってきたフイルムをカットしてネガケースに詰めるという仕事でしたが、その頃の写真はもちろんすべてフイルムだったので毎日もの凄い量です。最終電車に間に合わないこともあるくらいの忙しさでしたが、仕事が終わると自分のフイルムを無料で現像させて貰えたのでとても助かりました。
そのまま3年生に進むことも出来たのですが、本を読んだり撮影の技術を身につける時間が必要だと痛感していたので、自ら希望して2年生をもう一度やりました、いわゆる自主留年というやつです。その翌年3年生になってもスタジオのゼミを選びました。前期は自分でケント紙を切って作ったオブジェを、大型カメラとモノクロフイルム、光源一つだけを使って撮影しました。限られた条件の中ですが、光の当て方ひとつで被写体の表情が変わり、無限の世界が表現できることを学び、大変難しく、けれども充実した作業だったことを記憶しています。そして後期は卒業制作。自由に被写体を選び、カラーリバーサルフィルムを使っての撮影です。私は身の回りの物をテーマに選び、それらを構成して撮影することにしました。ブロッコリーを木に見立て、鏡の湖のほとりに配置したりして、「無機的風景」と題してシュールな世界を構成しようとしました。
料理写真のスタジオを辞め、鉄道の旅へ、そしてスペインへ
– 卒業後は?
学校の紹介で、料理写真で有名な、箕輪徹スタジオに入れることになりました。面接に行き、即採用が決まり、なんとその二日後にはスタジオから歩いていけるところにアパートが用意されていました。いつでもスタジオに行けるのと、どんなに遅くなっても帰ることが出来るから、ということでした。その頃数名いたスタジオのアシスタントは皆、そんな理由で近くに住んでいたのです。いつでも呼び出せるという理由で、電話も付けられていました。そこのチーフアシスタントも東京綜合写真専門学校出身でした。 私はそこでプロの仕事や技術をいっぱい学びました。クライアントや編集者とのつきあい方もここで学んだと言っていいと思います。
しかし結局、たった二年で箕輪徹スタジオを辞めることしました。それは写真を学んでいた学生時代に見た、ガウディの建築写真が頭から離れないということに気がついたからです。その写真とは、横浜の美術館で展示されていた、細江英公さんの作品でした。どうしてもガウディの本物の建築が見たくなり、スタジオで撮影したスペイン料理の本物を食べたくなって、目的地をバルセロナに据えた、長旅に出ました。スタジオの先生には自分の思いを正直に話して円満に辞めさせていただきました。今でも箕輪先生には、仕事で日本に来たときに三脚や機材を貸していただいています。私にとっての恩人の一人です。
ユーレイルパスを買い、横浜からナホトカ行きの船に乗ったのが24歳の時でした。ライツミノルタ1台を肩にかけてロシア横断鉄道を乗り継ぎ、モスクワからヘルシンキを経て一ヶ月ヨーロッパを旅した後、最終目的地のバルセロナに着きました。その後1年間くらいかけて、インドを回って日本に帰ろうと思っていたのですが、結局今までそのままバルセロナに留まっています。それがもう30年以上も前の話です。ガウディを見て、触って。物価が安かったこともあり、とても居心地の良い街でした。