水谷章人さんインタビュー
東京綜合写真専門学校を卒業した先輩たちは、いまカメラマンとしてどのように仕事をしているのでしょうか。また、なぜ東京綜合写真専門学校に入学したのでしょうか。先輩のキャリア形成について、第6期の卒業生でスポーツ写真の巨匠水谷章人さんに、お話を伺いました。
「きっかけは大学3年の頃」
―写真の道に進もうと思ったきっかけは?
東京の大学に通っていましたが、3年生の時に、故郷の長野県飯田市の実家に戻り、その時に高校の同級生で家業が写真館の友人がいて、そこで店番のアルバイトをしました。大学3年で卒業後の進路が決まっていない頃です。それがきっかけで写真に対する興味が目覚め、将来の進路として「写真」というものを意識するようになりました。
そこで、本格的に写真の勉強をしようと思い学校を調べてまず見つかったのが日大の写真学科(日本大学藝術学部写真学科)。ただ、大学から大学への転学はなかなか難しくて、それで専門学校を探して見つけたのが、写真界のトップの人たちが教えている東京綜合写真専門学校。重森弘淹校長をはじめ、そうそうたる先生たちが教えていました。
「ドキュメンタリー全盛の時代、学校の中では山岳写真を目指す異端児でした。」
―写真専門学校ではどのような学生でしたか?
当時はドキュメンタリー写真や報道写真が主流で、山岳写真を目指していた私は異端児でしたね。重森先生に山岳写真やスキーの写真を見せると、「解らない」と言いながらも、丁寧に見て下さいました。そんな中、先輩で研究室助手をやっていた風景写真家・横山宏さん、同期で入学し山岳写真家になった近藤辰郎さんに出会えたことが大きかった。横山さんとは一緒に住むことになり、彼がフリーカメラマンとして独立するまで助手を続けていました。同級生にはチェルノブイリの記録映画や上野駅、魚河岸などのドキュメンタリー写真で活躍する本橋成一さんや、今や九州産業大学写真学科の教授となった写真家の大島洋さんがいました。
2年生になる頃、学校から中日新聞写真部のアルバイトを進められて、試験を受けて合格しました。その仕事のために昼の第一学科から夜の第二学科に転科しました。読売ジャイアンツの担当になり、試合のある日はスタジアムに行きっぱなしで、ナイターの日は授業にも出られませんでしたね。試合のない日は横山先生、近藤さんと山に入っての撮影。
山岳写真家になる為に写真学校に入ったのに自分の写真を撮る時間がとれなくなり、2年間で中日新聞を辞めることになります。